私が住んでいたのは・・・どこだったのでしょう
2019年 02月 18日
北アフリカ、セウタです。
ここに来るまで、北アフリカとか、モロッコなどという地名は、私の中に全くありませんでした。
スペインのアンダルシアの向こう側に、アフリカがある・・・ということも全く考えたこともなかったのです。
夫の仕事場が、カナダからスペインに移ったときにも、ただ浮かれていましたが、連れて行かれたのが、アフリカ・・・。
災難としかいいようのない出来事でした。
セウタは、ご覧のように小さな町でした。
しかし、街中のレストランやブティックは、スペインの田舎町よりは、ずっと洗練された店が多く、驚きました。
下の方が、モロッコに繋がる、貧しい地域で、モロッコ人が多く住んでいました。
私たちは、好んでそうした地域に住みました。
このポスターは、トイレに飾ってあり、写真を撮るのが難しかった。

あはは・・・ひどい地図ですが・・・自分がどの位置に住んでいたのか確認するため、描いてみました。
ポルトガルの下の方の赤い印、オリャオが私たちが20年を過ごした漁師町です。
ここから見える海が、長いこと地中海だと思い込んでいました。
スペインとアフリカの間が、ジブラルタル海峡です。
マグロは、大西洋からこのジブラルタル海峡を通り、産卵のために地中海に入り、再び大西洋に戻るのです。
アフリカ側のセウタはスペイン領です。

モロッコにも漁場が出来たときには、モロッコ側のムディックという村に住んでいました。
セウタからは、国境を越えるのですが、村はたったの15分ほどの距離なのに、ワイロを渡さないと、一時間や二時間通してもらえません。
車の中に酒や金目のものを乗せていると、みな取上げられてしまいます。
窓口の男たちは、擦り切れた制服を着て 「もうすぐ子供が生まれるんだ・・・少し出せよ」などというのです。
こちらも負けずにボロボロの服を着て・・・少し離れたところに立っている私のところに夫がやって来ます。
私が首を横に振ると、夫は窓口に戻り「うちのカアちゃんがダメだって言ってる」と、伝えます。
繰り返すうちに、日本人のかかあ天下が窓口全部に広がり「お前も大変だな・・・」と、同情され、スムースに通れるようになりました。

ムディックには、カフェ以外に店はなく、みすぼらしい朝市があるだけでした。
しなびた野菜と、腐りかけた魚や肉があるだけです。
こんなお菓子はありました。
黒いのは蜂です。

テトアンには、迷路のようなメディナがあり、こんな店もありました。
入れ歯屋です・・・噂には聞いていましたが・・・びっくりしました。
使い古した入れ歯・・・凄いね。

何でも屋の店のショーウインドウには・・・猫が寝ている。
「猫も、売ってるの ? 」と、聞くと、親父は「いいよ、売るよ」


何と! 私の想像もつかない、遠いヨーロッパの見知らぬところに住んでおられたのですね・・・
よく行かれましたね・・・
「偉いなー」これしか言葉がありません。
若かったのですね・・・ヨーロッパとはいえ、見たことも聞いたこともない地・・・日々の生活に精一杯で、住んでいるところが地球のどの辺りか・・・見当もつかないまま日々が過ぎたのです。アフリカ、モロッコですからね、お手上げ。
ポルトガルが長閑であったことと、長くいたことが、せめてもの救いでした、
偉い・・・というより、夢中だったのでしょう。
今になって、始めて確認した・・・という始末です。
そうかぁ〜こんなところにいたんだ・・・という感じ。
いずれにしろ、ド田舎ばかりです。
ミントティ、苦かったですか ? 溺れた蜂を飲まないように、注意して飲みました。
寒いときには、このアチチがありがたく、体がぽかぽか暖かかったです。
ご主人もきっと物語をいっぱい持っていらっしゃることでしょう。お二人で一杯傾けながら仲良くお暮しくださいませ!!(これは余分だったかな)
若いからできた・・・それだけではないですね。やはり、好奇心がそうさせるのでしょうか。貧しい地域には、めったに体験できないこと、興味深いことが、沢山あると思います。整い過ぎた裕福な地域では味わえないものが。
日本のかあちゃん、強い、きっと今でも
そう思われていますよ。
手にとるように理解できるわ・・と思っていると、
始まったお話のとんでもなさ!
少しの写真と文章で、映画のようにグイグイ引っ張りこまれます。匂い、空気、時間も感じることができます。
凄い環境を楽しんでもおられた感じも受けることができて、素敵です。
素晴らしい思い出の記ですね。本として出るのを首を長くして待っています。
すごさ・・・そうですねぇ。なにも知らないからいられたのでしょう。帰り方がわからないし、いるしかないし・・・ということですね。
危険は、今になって思いだし、ゾッとしています。
余分な方が・・・モロッコ暮らしより無理かもです。
話せばわかる・・・などということは通用しませんから、ひたすら "金よこせ" 攻撃・・・市場に行くにも、古着屋で買ったボロを来て、小銭だけを握って、きれいな服を来た女中と行きました。あはは・・・私が女中のようでした。
基本的に、表に女はいませんでした。
アラブの人も、お母さんには弱いです。
再び・・・よかったですね。さすがです。あとで伺おう。
安全なところで、ぬくぬくと写真を眺め・・・思いだすとゾッとすることも多いです。
断片的すぎて・・・本にはならないでしょう。
ここで、ご披露して、私も楽しみ、読んで下さる方にも、少し笑っていただければ・・・と、思っています。
改めて地図を確認したら・・・私たちのいたところは、スペインというより、ポルトガルというより・・・アラブの影響の強いところだったのですね。バルセロナやマドリッドはヨーロッパでしたが、ポルトガルを含めて、南はヨーロッパではありませんでした。
忘備録的・・・動けなくなったらゆっくり眺めようと思います。
私は30代の初めにフランスにやってきましたが、それだけでも思い出すと、「すごいことだったな~、今もう一度同じことをやれと言われてもできないな」と時々思い返します。
いい時代のパリもご存知で羨ましいな。
70代後半のフランス人の友だちが、若い頃ドゥ・マゴの建物の最上階に住んでいたので、当時の話を時々聞かせてもらっています。サルトルやボーヴォワールともすれ違っていたに違いない!
旅の話と地図は切り離せませんね。また、いろいろと聞かせてくださいね♪
いらしたのは60年代ですか ?
私たちが行った頃は、パリが少しづつ変わっていた頃だったと思います。それでも、街の人々が、なにかを目指しているらしい若者には、やさしかった気がします。
ドゥ・マゴがモンパルナスにあった頃ですね・・・そうですね、彼らは毎日来ていたそうですから、お会いになっていたことでしよう。風変わりな人がたくさんいました。
青目さんたち御夫婦はお芝居までして切り抜けていたのですね。
ポルトガルでも南のほうはアラブの色が漕いですね。
秋田でも山形に近いところでは山形の食文化が色濃く出ているし、青森に近いところは言葉も津軽に近く、郷土食も青森に似ています。
それと似ているな~と思いました。
青目さんの柔軟さに乾杯!

はい、会社自体が怪しかったのです。放漫経営で、つぶれました・・・入っていたはずの保険も解約されていて、退職金も失業保険も泡となっていて・・・悲惨でした。
ポルトガルでは、サラリーマン漁師でしたが、社会保険とかいろいろケアしてくれて、いい会社でした。
どちらもアラブの影響を受けているものの、ポルトガルとスペインの違いの大きさは、相当なものでした。
ありがとうございます。夫はなにも話さないので、始めて知りました。社長さん・・・そういう人はいないのだけれど・・・誰のことでしょう。なにかの勘違いですね。
それにしても・・・ヘタクソなレポートですね(ほほ・・・)正確じゃないし、困ったわ・・・と、思っちゃった。どういう仕事なんでしょうか ? 趣味ではなさそうだし・・・呑気なようにも見えるし、徹夜もするし・・・いろんな人がいますねぇ。
また、覗いてみようと思います。
いつものようにわくわくドキドキで拝見しました。
読みながら写真を見ながら・・・青目さん、凄い体験をされながらもよく観察されてるー。
ガソリンをゴムの葉っぱで、なんてよく写真が残ってましたネ!
青目さんならではの言葉で本にしてください。地図もわかりやすくて想像力を掻き立てます。

僕たちはジブラルタルからフェリーに乗ってタンジールに日帰りで行ってきました、96、7年頃でしたか、今思うと一泊するべきだと思ったのですが時遅し。
帰りのイミグレでは小僧どもが寄ってたかって俺がスタンプをもらってやるからパスポートをよこせと言い寄られ、しつこいことこの上なかったです。
今だったら絨毯を買いに行きたいものです。
はは・・・小学生並みですが。
スペインからは天気の良い日にはアフリカが見え、アフリカからはスペイン本土が見えました。目の前のはずなのに、どうしてポルトガルからは見えないのだろうと思っていました。
こんな感じでは、見えないはずです。
モロッコは、かなり下の砂漠の方まで、いらっしゃったのですよね。

蜂が入ったお茶とかケーキ、今の世の中では、食すにはちょっと勇気が要りますね。
でも、戦中戦後、焼け野原の日本を経験している世代ですからこういうことも分かるように思います。
モロッコやアルジェリアの辺りは貿易商を営んでいた父が旅したことがあり、その時の話を聞いていました。Aomeさんのお話と重なる部分がかなりあります。
非常に貴重な経験をなさいましたね。 何もご存知なかったからできたこと、何にも勝る実体験ですから。
なにも知りませんでしたから、すごい・・・ということもないのです。
地図で描いてみて、遠いところにいたものだ・・・と思うばかりです。
本を書くには、相当勉強が必要でしようね・・・無理だ。
ジブラルタルには、おいしいカレー屋があり、セウタからフェリーで渡、わざわざパスポートコントロールを受けて、一日がかりで食べにいったものです。すごい食い意地。
タンジェールは、素敵なところでしたね。人生でもっともおいしいフランス料理でした。食材がよかったのでしよう(新鮮)・・・また、食べる話だ。
移住したフランス人が多かったけれど、テロ問題が起きてからイベリア半島(ポルトガル)に移ったようです。
物乞いや、土産物屋のしつこさは、尋常ではないですね。私たちは、知り合いの骨董屋に頼んで、ガイドというか、用心棒とかいうか、そういう人を頼みました。それでないと、まともに歩けないほどでした。
笑い話ですが・・・モロッコの土産物屋の絨毯は、中国製 ???らしい・・・まさか、ですね。
地図・・・ははは、すみません、小学生並みです。自分でも、描いてみないと把握できません。今になって、なるほど〜です。
溺れている蜂を飲み込まないように注意が必要でした。砂糖をたくさん入れるので、すぐに蜂がやって来ます。
お父さまがいらしたのですね。「カサブランカ」の世界があった時代でしようか。絨毯や革製品などお買いになったのでしようか。
知らないと言うことは最強です。
ド・マゴは、1885年からずっとサン・ジェルマン・デ・プレのサンジェルマン教会の前で営業が続いているはずですが、モンパルナスにあったというのは別のカフェのことかしら?
あ、そうでしたね。あの頃は、サンジェルマンは今ほど賑やかではありませんでした。モンパルナス全盛で、多分、ラ、ロトンド、ル・セレクト、ル・ドームが賑やかだった時代です。勘違いでしょう。明け方あいていたのは、その中でクーポールだけでした。
観光化されてからはモンパルナスは寂れ始め・・・本屋がなくなったからだ・・・という人もいます。
現在のドゥ・マゴ界隈の賑わいに比べて、モンパルナスは寂しくなりましたね。
モンパルナスの記述を削除しました。ありがとうございます。